いかにモダンなコンテクストや作法で(俗称)狂人日記レポジトリ

2008.08.16 20:48

いかにモダンなコンテクストや作法で(俗称)狂人日記レポジトリをコミュニティへ集積させるか
考えをさほど高度化はしていないが、こと狂人日記作法についてコンをつめるほど煩雑で複雑性を帯びたものになる。また「狂人日記らしさ」を追求しすぎることも依存技術との信号不全というか相性で不良を起こすのでうまくいかないように思う。つまり狂人日記作法とは、より低級な(俗称)狂人日記に最適な環境づくり・周辺技術への体系的な知識の取り込みにリソースを割り当てる高次作法という意味合いをもつものになる。
また俺自身、制作側であり出演,演出も兼ねている小規模なテキストサイト記述者でもあるので、なるべくして本来の意図から外れた文章が歩み寄ってくる可能性もあるが、最大限配慮する。具体的にいうと改行をいれる。なぜそうするかといえば人間一人の制作量には限界があり、外注の形をとるにしても明確なチュートリアル、規約文、仕様文などを読み取れるふう用意していた方が生産的品質的にも優れる、という当然の理由からなのだが、おそらく俺以上にもっともらしく記述できる人材はあるのだろうが(俗称)狂人日記嗜好者は極々現状少数派であり、そんなものに能力を使うプロや時間をかけるアマチュアを待つ可能性にかけるのには俺の時間がない。そこでこの文章の登場なのだが、俺の文章はたいていの場合能力不足で力つきるので読み取り可能な箇所を含むノイズっぽいものとかspamとか「エキサイト翻訳みたいな文章」みたいな扱いで当面はいいだろう。
前提。自分が何をなしたいがために(俗称)狂人日記という設計術を使うのかという所だが、これは「私的な幸福」ということで間違いない。そこから枝分かれ的に派生してゆく。最初に書いておくものだが、ということでこの文章は、いかに(俗称)狂人日記嗜好者が幸福(快感)を得るのかというふうに読み替えることもできるが、あくまで単純な作法にのっとったものにしたいので前述のようにした。つまり作り手と受け手が同じ目線でみられるもの、SAIで描く萌えなんちゃら講座みたいなものだ。
(俗称)狂人日記が「私的なもの」であるとしたが、すべてにとってそうではなくたとえばいち社会貢献として、文芸(文学)の世界では狂人日記作法をとり得れた作品などが存在する。狂人日記作法でも、コーテングと同じように過去の資源が有効的活用できる。こと文芸の狂人日記作法が得意なのはこのネーミング方法でわかるとうりロシア文芸コミュニティであり、そのいくつかは青空文庫などで読むこともできる。またそれらに影響された国内外の諸作品なんかも図書館に行けば山ほどある。
では、なぜそれら文学作品(小説)で済まさずに(俗称)狂人日記なんかが必要となるのかといえば、(俗称)狂人日記と文学作品は異なるものであるという認識から始まる。大きな違いは、媒体による性質や受け手のコミュニティ

posted by laiso

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